第三十一話 咀嚼丸その3 (連続33日目)

最初咀嚼丸は言われたとおり布団の中でじっとしていたが(布団の中でじっとしていろと言われたわけではないが大人しくゆっくりしていろとはそう言う意味だと咀嚼丸は理解していた)、そのうち退屈になってしまった。いや。そんなことより大自然の呼び声に答えたくなったのである。
ようするに、トイレに行きたくなった。
まあ、行ってすぐ戻ればどうということもあるまい、と彼は考え、布団を抜け出て楯霧家の中を冒険することにした。
冒険という言い方は大げさなようでそうでもない。
外から見ると城のように巨大な楯霧家だが、内部はさらに城のように入り組んでいる。外敵の侵入を防ぐためだ。何度かお邪魔したことがあるが普通の人間が普通に歩き回って普通に目的の場所にたどり着くなんて事は出来ない。最初は案内が絶対に必要だ。そして最大のミニ情報、刃剣は魔法生物みたいなものなので飲み食いをめったにしない…よって、厠など無い。
「自分の時も『適当に庭で用をたせ』とか無茶を言われたな…」
「おお、ネコ使いさんもそうっスか?!俺もそうっスよ!」
もっともそれはもっとずっと後での話。その時の咀嚼丸はだんだんと強くなっていく大自然からの呼び声に急かされ、ほぼ半狂乱で屋敷中を走り回り始めた。
「どこっスかー?!どこに有るっスかー?!」
答え。無い。
屋敷をドタバタと移動していれば当然住人は何事かと見に来るわけで、そこで出会ったのが刺だった、と彼は言った。
「ああー、刻姉様がご迷惑をかけたとか言ってた…」
今朝方ぶつかった少女とうり二つの少女だった。当然の事ながら口が耳まで裂けてたりしない。彼は刺と出会うことで初めて刻が現実離れした美しさを所持していたのだということに気付く。
しかし大自然の呼び声はすでに叫び声に近くなっていた。
「すっすみません、トイレは…」
顔を真っ赤にしながらやっとの思いでそう問いかけたのだという。
すると刺はにこやかに「ああ、なるほどー、人間ですものねー。わたしも斬姉様も失念していましたー」と言って彼の手を引いて歩き始めた。
前回もてていた発言をしていた彼だが、当時この時まで女の子の手を握ったことなど数えるほどしかなかったのだという。
「純情ボーイだったっスからね。ものすげードキドキしたっスよ」
しかし危機一髪状態の彼はその状況を楽しむ余裕など無く、ただ黙って青い顔で大人しく引っ張って行かれたのだという。
「さあ、付きました。ご存分にどうぞ」
連れて行かれたのは見晴らしの良いテラスだった。手すりがある以外は何もない、簡素な作り。下は断崖絶壁。
「どうぞ遠慮なくー。ちゃんと見てますからー、落ちたりする危険はないですよ?」
そういって、じっと見つめられたのだという。多感な中学生にとっては酷な仕打ちだ。
しかし、大自然の叫びには勝てなかった。

最中、一度も視線が外れることはなかったという。刺は真面目な娘なのだ。
「大きい方じゃなくてよかったなぁ…」
「ホント、大きい方じゃなくてよかったっスよ」
その後乾いた制服の包みを持たされ、、その当時は未だ健在だった町まで通っている秘密の通路を通って帰宅した…しかし、あまりのショックでそれ以降の記憶は無いという。彼はこの出来事以降個室以外で用を足せなくなったのだがこれは余談。


次の日。
当然のごとく彼のクラスに二人の転校生…いや、復学しただけなので転入生か?他に該当する単語が思いつかない…が現れた。もちろん刻と刺である。
「よりによって同じクラスっスか…」
彼は頭を抱え嫌な汗をだらだらと流した。下手にいじめられていた過去がある分、ダークな想像はより具体的にかつ現実的に彼をさいなむ。『もしあの二人のうちの一人が昨日のことを話してしまったら…俺は破滅っス…っ!』
実際には多少からかわれてバカにされる程度で終わる話だが、当時の彼にはまるっきり余裕がなかった。
「よし、あの二人と仲良くなって、絶対に昨日のことは話さないように頼むっス…!」彼はそう決意し、驚くべき事にそれを実行した。実行できた。ただのその辺にいる中学生でしかなかった彼にとってそれは奇跡である。
それが間違いだったのだが。



その時私達夫婦は引っ越し先を探していた。またまた周辺住民とのトラブルが発生して、前の所には住めなくなったのだ。猫の所持数はこの頃千匹を有に超えていたから無理もない。
当時は一年、もしくは数ヶ月で転居することを繰り返しており、私もフサエも疲れ果てていた。定住出来るところが欲しい。もう引っ越しは嫌だ。
その時救いの手をさしのべてくれたのが斬だ。私と斬は刻や刺を通して以前からの知り合いだったし仕事仲間でもあった。フサエとは仲が悪かったがそれなりに認め会っていた。難儀しているのを何処かから聞きつけ(おそらくは十和田だな)、彼女の隣の家が空いていることを教えてくれた。隣と言っても数キロ越しなのは前も言ったとおり。
フサエはすぐにこの家を気に入った。特に幽霊が出るとか言う曰く付きなのが。私はどちらでも良かったのでサクサクと準備は進み、そして引っ越した。住み始めてからは色々と不満な点がいくつか出てきたがまあその辺は省略する。
引っ越して数日後、早速刻と刺が遊びに来た。フサエと二人は初対面だった。三人はすぐに仲良くなり、それからちょくちょく刃剣の姉妹は我が家に遊びに来るようになった。
そのうち、何かの話のついでに刻と刺が中学を出ていないと言うことが判明した。同級生だった事もある私も初耳だった。確かに留年し続けていたが、まさかそのまんまにしていたとは。
「それはよくないわね、きざみちゃん、ささりちゃん」
フサエは言った。
「ちゃんと中学くらいは出ておかないと。立派な大人になれないわよ?」
いやすでに何百年も生きてる妖怪みたいなものなんですけど。この姿でとうに成人しているんですけど。
「じゃあまたガッコいこうかー、刺」
「うん、そうしましようかー、刻姉様」
刻と刺の復学の理由は、たったそれだけだった。


たった数ヶ月で二人と仲良くなった咀嚼丸は夏休みが終わる頃には我が家に遊びに来ていた。
彼がどのような手段を用いてこの見た目より遙かに難易度の高い刃剣の娘二人と仲良くなったのかについては…実は知っているが、これを一つ一つ説明しているとこの話はネコ使いではなくなってしまうので割愛する。
ついでにいかにして刻と刺がこの目の前でにやけている男を取り合って仲違いにまで至ったのかについても、割愛する。
一つだけ言っておくと、私達は苦労させられた。ものすごーく苦労させられた。当事者は呑気なものだが、それは私達が死ぬほど裏で走り回ったからだ。感謝してくれとは露ほども思わないが(それは私達にとっても必要な努力だったのだ)、こう延々と自慢話臭いノロケ話をされるとつい苛立つのは許して欲しいものだ。
ああ、今日も猫達の話が一つも出来なかった。